自己啓発 読書

【名言集】アドラー心理学『嫌われる勇気』

大ベストセラー『嫌われる勇気』

何度も読み返すうち私のバイブル的存在になっています。

 

この記事では、名言だらけの本書の中で特に心に響いたものをご紹介したいと思います。

 

みなさんの心にも響くはず!?

 

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第一夜 感情の支配について

アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。(中略)順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。(中略)つまり、ご友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。

 

あなたには大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのです。

 

問題は「なにがあったか」ではなく」どう解釈したか」であると?
まさに。我々はタイムマシンで過去にさかのぼることなどできませんし、時計の針は巻き戻せません。もしもあなたが原因論の住人になってしまえば、過去に縛られたまま、この先ずっと幸せになることができなくなります。(中略)過去がすべてを決定し、過去が変えられないのであれば、今日を生きるわれわれは人生に対してなんら有効な手立てを打てなくなってしまう。その結果、どうなりますか?世界に絶望し、人生をあきらめるようなニヒリズムやペシミズムに行き着くことになるでしょう。トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入り口なのです。

 

「このままのあなた」でいていいのかというと、それは違います。もしも幸せを実感できずにいるのであれば、「このまま」でいいはずがない。立ち止まることなく、一歩前に踏み出さないといけません。(中略)大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。

 

人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです。(中略)変えようとするとき、われわれは大きな“勇気”を試されます。変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。

 

(小説家になることを夢見ながら作品を書かない人へのコトバ)
実際のところは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えば書ける、自分にはその才能があるのだ、という可能性のなかに生きていたいのです。おそらく彼は、あと5年10年すれば「もう若くないから」とか「家庭もできたから」と別の言い訳を使いはじめるでしょう。

 

アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについて何の影響もない」といっているのです。自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ、と。

 

第二夜 すべての悩みは対人関係

われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」(中略)主観的な解釈、もっと言えば勝手な思い込みです。
ところが、主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということです。自分の慎重について長所とみるのか、それとも端緒とみるのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、私はどちらを選ぶこともできます。(中略)われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことができる。そして私たちは主観的な世界の住人である。

 

強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない。かといって、「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。「できない自分」を受け入れられない。そうなると人は、もっと安直な手段によって補償しよう、と考えます。(中略)あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。(中略)身身近な例として挙げられるのが、「権威づけ」です。(中略)もしも自慢する人がいるとすれば、そそれは劣等感を感じているからにすぎない

 

健全な劣等感とは、他社との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

 

対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。(中略)競争の先には、勝者と敗者がいるからです。

 

親から虐げられた子どもが非行に走る。不登校になる。リストカットなどの自傷行為に走る。フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。確かにわかりやすい解釈です。
しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復習」という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、今の目的(親への復習)をかなえるために。

 

怒りという道具に頼る必要がない。怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションをしてしまう。(中略)われわれには、言葉があります。言葉によってコミュニケーションをとることができます。言葉の力を、論理の言葉を信じるのです。(中略)人は、対人関係の中で「私は正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。(中略)わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「私は正しい」という確信が「この人は間違っている」の思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たなければならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。

 

誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。

 

行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。そしてこの行動を支える心理面の目標が「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。

 

恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。長年連れ添った夫婦であっても、関係を続けることが困難であれば別れることもできるわけです。ところが、親子関係では原則としてそれができない。恋愛が赤い糸で結ばれた関係だとするならば、親子は頑強な鎖でつながれた関係です。しかも自分の手には、小さなハサミしかない。親子関係のむずかしさはここにあります。(中略)逃げてはならない、ということです。どれほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。たとえ最終的にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う。いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。

 

アドラー心理学は「所有の心理学」ではなく、「使用の心理学」です。つまり、「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」という言葉ですね。(中略)われわれ人間は、原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではありません。目的論の立場に立って、自らの人生を、自らのライフスタイルを、自分の手で選ぶのです。われわれには、その力があります。

 

第三夜 他者の課題を切り捨てる

 

信じるという行為もまた、課題の分離なのです。相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。そこの線引きをしないままに自分の希望を押しつけると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。
たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。愛することができるか。

 

自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題で合って、あなたにはどうにもできない話です。

 

良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要です。距離が近すぎて密着してしまうと、相手と向かい合って話すことさえできなくなります。
とはいえ、距離が遠すぎてもいけません。親が子どものことをずっと叱ってばかりいては、心が遠く離れてしまいます。これでは子どもは親に相談することさえできなくなるし、親のほうも適切な援助ができなくなるでしょう。差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない。そんな適度な距離を保つことが大切なのです。

 

あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想です。

 

多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っています。だからこそ「あの人は自分のことをどう思っているんだろう?」と気になるし、他者の希望を満たすような生き方をしてしまう。でも、課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っていることに気がつくでしょう。

 

第四夜 世界の中心はどこにあるか

承認欲求の内実を考えてください。他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?…こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち自己中心的なのです。

 

われわれは他者をみるとき、ともすれば「自分にとっての理想像」を勝手ににこしらえ、そこから引き算するように評価してしまうものです。
たとえば、親のいうことにいっさい口答えせず、勉強もスポーツも真面目にこなして、いい大学に進んで、大きな会社に入る。そんな――アリもしない――理想の子ども像と引き比べて、わが子にあれこれ不平不満を抱いてしまう。理想像としての100点から、徐々に減点する。これはまさしく「評価」の発想です。
そうではなく、ありのままのわが子を誰とも比べることなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。

 

まずは他者との間に、ひっとつでもいいから横の関係を築いていくこと(中略)もしもあなたが誰かひとりとでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえているのです。

 

第五 「いま、ここ」を真剣に生きる

(家事に追われる人へ)
たとえ家族から「ありがとう」の言葉がきけなかったとしても、食器を片づけながら「わたしは家族の役に立てている」と考えてほしいのです。他者がわたしになにをしてくれるかではなく、わたしが他者に何をできるかを考え、実践していきたいのです。その貢献感さえ持てれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう。

 

線としてとらえるのではなく、人生は点の連続なのだと考えてください。(中略)線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。(中略)われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。われわれの生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。

 

人生とは、いまこの習慣をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。(中略)ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのです。(中略)踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとはだれも思わないでしょう。無論、踊った結果としてどこかに到達することはあります。踊っているのですから、その場にとどまることはありません。しかし、目的地は存在しないのです。

 

目的地に到達せんとする人生は「キーネーシス(動的)な人生」ということができます。それに対して、私の語るダンスを踊るような人生は「エネルゲイア的(現実活動態的)な人生」といえるでしょう。
登山の目的が「登頂すること」にあるのなら、それはキーネーシス的な行為でしょう。極端な話をするなら、ヘリコプターで山頂に向かい、5分ほど滞在し、再びヘリコプターで帰ってもかまわない。もちろん山頂にたどり着けなかった場合、その登山は失敗だということになります。
しかし、目的が登頂ではなく登山そのものであれば、エネルゲイア的ということができます。結果として山頂にたどり着くかどうかは関係ないわけです。

 

人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや、見えるような気がしてします。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。(中略)われわれはもっと「いま、ここ」だけを真剣に生きるべきなのです。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きてはおらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証です。
人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

 

どこに到達したのかを線で見るのではなく、どう生きたのか、その刹那を見ていくのです。

 

人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。
そしてもうひとつ覚えておいてください。エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結しているのです。

 

人生における最大の噓、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。

 

われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきなのです。

 

人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ

 

まとめ

全部で35の名言を独断でご紹介させていただきました。

 

いかがでしたでしょうか。

心に留まった名言はありましたでしょうか。

 

本書は何かあるたびに手にする私のバイブル本の一つです。

自分自身の年齢とともに理解度が増し、読み直すたびに心に刺さるポイントに変化があります。

奥が深いです。

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ゆきねえ

こんにちは、ゆきねえです。50代です。これまで人生で頭を悩ませたこと、試行錯誤したことなどを綴りたいと思いブログを開設しました。 教育産業に携わって約25年なので、その方面の話題が多くなると思います。 よろしくお願いします。

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